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2008/09/08|

 笹沼朋子「差異派こそがジェンダー」、松山市へ意見書

 笹沼朋子の「松山市男女共同参画推進条例の運用の基本方針を明確にすることを求める請願に関する意見書」が、ここのワード文書ファイルにある。

 そのワード文書を読んでいると疑問に思ったところがあった。

請願事項2では、「身体及び精神における男女の特性の違いに配慮すること」とございますが、女性の身体及び精神における特性を強調するような研究あるいは学習こそが、「女性学」あるいは、最近になってからは「ジェンダー学」と呼ばれているものでございます。



 これは典型的な差異派フェミニズムの主張だ。フェミニズムは差異か平等か、平等か差異かといつまでも言っている。おそらく、フェミニズムがなくなるまで言っていることだろう。

 男女の差異を強調する差異派は、女性特有の女性ならではの事柄に重きを置く。その差異派が重要視されるのは当然だが、笹沼朋子はそれこそが「ジェンダー学」だと言っている。これを意見書に書く笹沼朋子こそが偏った意見の持ち主だ。

 笹沼朋子は最初のページに、以下のことを書いている。

はっきり言って、この請願は、あまりに不勉強。ジェンダー学とか女性学とか学問の領域について言及しているのに、それが何を指しているのか、まるで分かっていない。



 ポスト構造主義思想の下で差異派こそがジェンダーだという笹沼朋子は、ジェンダー概念がジョーン・スコット『ジェンダーと歴史学』よりも前のところで止まっているのではないのか?バトラー『ジェンダー・トラブル』に書いてあることなんて、恐ろしくて認めたくないことばかりではないのか?ポスト構造主義思想は『ジェンダー・トラブル』よりも、もっと狂気の沙汰のことを言っている。

 笹沼朋子は、ワード文書の意見書に以下のことも書いている。

 さらに、女性学(そして一部のジェンダー学)とは、女性が男性と同じように扱われてきたことを問題として、女性に焦点を当てるものでございます。



 笹沼朋子はここで、女性学とジェンダーからの主張は違うことを認めている。笹沼朋子の「差異派こそ」という主張は、ジェンダー論では女性学の時とは違って一部になったと認識している書き方だ。

 そうなると、松山市のジェンダー学というものへの批判は、笹沼朋子の意見とも重なっているのではないのか。保守派は、ジェンダーからの平等派に憤っているのだ。差異派がジェンダーでは軽く扱われることに松山市も疑問に思い、笹沼朋子も疑問に思っているのだろう。笹沼朋子は松山市を批判しているつもりが、「ジェンダー学」というものへの批判では、松山市と笹沼朋子は一致点を見出せるところがある。両者共、ポスト構造主義思想を受けすぎたジェンダー論には抵抗がある。

 ジェンダーという言葉を利用したフェミニストがバカなことを言ってきたから、ジェンダーへの批判が強まったことでもある。若桑みどり『お姫様とジェンダー』(ちくま新書)の12頁には「女性は子どもを生むことのできる生物体であるということだけが男性とちがっている」と書いている。何でも男と同じの平等派が行き着く先だ。

 笹沼朋子はこの若桑みどりの意見には反対だろうが、松山市もこのような平等派の意見に反対なのだ。笹沼朋子のような差異派のフェミニストたちが、特に若桑みどり言説に厳しく批判するべきだった。こういう若桑みどりのような行き過ぎた平等派の意見に、保守派はイラ立っている。若桑みどりは、上野千鶴子のジェンダーフリーの件や、対バックラッシュとしても知名度のあるフェミニストだったので、特に批判をしておくべきだったのではなかったのか。

 笹沼朋子の「差異派こそがジェンダーだ」という意見書こそが混乱の元であり、現在のポスト構造主義思想下のジェンダー概念を著しく制限するものだ。そんな混乱の元となる意見書を出して松山市を批判しているつもりが、松山市が望む差異派の主張に同調するところもある。この意見書ってこれでいいのだろうか?と思った。

 現代思想やポスト構造主義に関心のある人は、笹沼朋子のこの意見書を読むと、疑問に思うところがあるのではないだろうか?


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2007/12/16|笹沼朋子と差異派ジェンダーTB:0CM:0

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